増田通信より「ふ~ん なるほどねえ」224 五輪讃歌
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<最近の祈り> 五輪讃歌
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最近になって知ったことだが、
私の父は1964年の東京五輪の競技を生で観戦したそうだ。
何を見たのか尋ねたら、「競歩だ」と。
競歩?
予想外の答えに戸惑った私は、
なぜ、競歩を観戦しようと思ったのか、父に問うことを失念した。
とにかく、話は弾まなかった(笑)。
これが体操やバレーやマラソンや柔道なら、
大いに昔話に花が咲いただろう。
まだ幼かった私でも、東京五輪にはずいぶん熱中した。
体操男子の山下や遠藤、三栗、早田、女子のチャフラフスカ、
重量挙げの三宅、バレーの東洋の魔女、マラソンのアベベや円谷、
そして柔道の神永や猪熊、岡野、ヘーシンク……。
こういった面々の活躍にいちいち興奮した記憶がある。
恐らく、私が生まれて初めて、見たくて見たテレビ番組が五輪中継だ。
青みがかったモノクロの画像の中で躍動する選手たちは、
自分の将来の姿のような気さえしていた。
まだ、一流のアスリートになる困難さなど、知る由もない年頃。
「大人になったら、自分もあんなふうに脚光を浴びるのだろう」。
そう思い、そう信じ、密かにそう願った。
問題は、どの競技で一流になるかだった。
私は柔道を選んだ。
父と母にせがみ、道場に通う許しも得た。
もう、何十年も柔道着に袖を通していないが、
以降、今日まで柔道の主要大会中継は欠かさずに観戦してきた。
1980年の全日本選抜、不敗記録を続けていた山下泰裕選手(現JOC会長)が、
遠藤選手との対戦中に骨折したときの「ボキッ」という鈍い音。
1996年のアトランタ五輪、
今度こそ「金」と期待された田村亮子選手が決勝で敗退した直後の、
「私も人間だなと思いました……。人間でよかった」という談話。
2000年のシドニー五輪の男子100キロ超級決勝、
勝者の篠原信一選手が敗者にされるという「大誤審」の時の篠原さんの表情。
忘れられないシーンは、まだまだいくらでもあるが、
一番は、1992年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級決勝だ。
直前の練習で靱帯に大怪我を負った古賀稔彦選手は、
出場すら危ぶまれる中、決勝まで進んだ。
最後の一戦は制限時間内で決着がつかず、勝敗は判定に持ち込まれた。
金メダルは古賀か、相手か……。
判定の旗が揚がるまでの数秒の、古賀のすべてを私は覚えている。
体は震え、目は充血し、口元も歪んで震えていた。
限界を突破してしまった緊張、もはや行き場を求めようもない熱情、
宇宙まで届きそうな祈り、そして、慟哭……。
天は、古賀に勝利をプレゼントした。
こんな繊細な青年が、こんな優しい男が、こんな普通の心の持ち主が、
今、その努力の成果を世界中から讃えられている。
テレビの前で、私は中継が終了してもなお、拍手を贈り続けた。
その拍手は、古賀へのものから、いつしかすべての選手たちに、
そして、五輪を生み出し、五輪を守った人類に向けたものへ変わった。
さらには、バブル経済の崩壊により、
いっそ死んでしまいたいと思い続けていたその頃の自分を、
叱咤し、鼓舞し、激励するための拍手でもあった。
ありがとう、五輪……。
もう、あれから30年近くになる。
はからずも、新型コロナ感染症の影響で、
私も、多くの人々も、五輪の舞台裏を垣間見ることになった。
そう、古賀選手の姿に世界が歓喜し、感涙を流したのは表舞台の話。
五輪の半分、いわば「2.5輪」である。
残りの「2.5輪」は、その感動を準備し、演出し、普及する活動や、
その感動を商品化したり、政治利用したりする人々の活動である。
五輪は世界中を幸せにする、人類最高の叡知を集めた祭典だ。
であればこそ、市場経済の立場で考えれば、史上最良のマーケットだ。
メディアを通じて世界中の人々が、食い入るように観戦するこのイベントに、
「一枚噛まない」ほうが、企業としては間違っていると言ってもいい。
ただし、「こんなおいしいマーケット」である。
一枚噛むための、つまりスポンサーになるための費用は破格である。
東京五輪のスポンサーは4つに分類されていて、
それぞれの権利と契約金額は大きく異なっている。
●ワールドワイドオリンピックパートナー
14社が契約。契約金額は1社あたり1年で30億円程度。
もっともトヨタは10年契約で、実に2000億円と言われている。
●JOCゴールドパートナー
15社が契約。契約期間は6年間で、総額は1社あたり150億円以上。
●JOCオフィシャルパートナー
32社が契約。契約期間は6年間で、総額は1社あたり50億~60億円。
●JOCオフィシャルサポーター
18社が契約。契約期間は6年間で、総額は1社あたり10億~30億円。
ざっと計算してみても、毎年1000億円を超す契約金が収められており、
それが何年も何年も続いていくのである。
むろん、このほかにも巨額の放映権料や入場料、グッズ販売料なども動く。
五輪は、誰がどう言おうと金の成る木であり、
しかもその木の枝葉や根は、世界経済の隅々にまで延びている。
だから、やめられるわけがないのだ。
極端な言い方をすれば、
五輪を中止することは、資本主義を否定することになってしまう。
資本主義は、「その存在が金になる」と思えば、
どんなものでも商品にし、どんなことでも市場にしようとする。
本来は誰のものでもなかった土地が売買され、
今や、水源や水道すらも商品になりつつある。
かつては、五輪も商品ではなく、アマチャアリズムの祭典だった。
だが、金になる五輪を、資本主義はいつまでも放置しなかった。
1984年のロサンゼルス五輪。
空から宇宙飛行士が舞い降りてくる、あの開会式の光景は今でも鮮明だ。
五輪をショービジネス化させ、
スポンサーを一業種一社に絞ることで契約料を吊り上げ、
細かいことを言えば、聖火リレー走者からも参加料を徴収するなど、
この大会から五輪は商品としてのあり方に舵を切った。
その後、たびたび「金のかからない五輪を」という題目が唱えられたが、
投資が小さくなれば、リターンも小さくなる。
資本主義に、「それを飲め」というのは無理がある。
ゆえに、巨額五輪はなくならないし、
パンデミック(ごとき)で、投資回収機会を放棄するなど、あり得ない話だ。
つまり、東京2020を中止できない根本的な理由は、
IOCやJOC、日本政府や東京都などの個別事情によるものではなく、
五輪を「商品と市場」にしてしまった資本主義の歴史にある。
だから、何のために五輪を開催するのか? と、問えば、
その答えは、表舞台を見ている人と、舞台裏を見ている人とでは、
まったく異なるものになってしまう。
それでいいのか?
行き過ぎた裏舞台の動きは、
すでに表舞台の感動を浸食し始めている。
無理を通せば、すべてを失いかねないのが、世の習わしだ。
私は、今ほど、人類が試されている時はないと感じている。
五輪の強行開催は、世界が求めるSDGsに逆行するものではないかと。
節度を持ち、調整可能な資本主義でなければ、
人類が窮地に追い込まれてしまうことはすでに皆が知っている。
五輪を例外にしては、いけないと思う。
21世紀の資本主義は、少し速度を緩めて競い合うべきだと思う。
「競走」ではなく、「競歩」程度で。
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増田紀彦NICe代表理事が、毎月7日と14日(7と14で714(ナイス)!)に、
NICe正会員・協力会員・賛助会員、寄付者と公式サポーターの皆さんへ、
感謝と連帯を込めてお送りしている【NICe会員限定レター「ふ〜んなるほどねえ」スモールマガジン!増田通信】。
第224号(2021/0707発行)より一部抜粋して掲載しました。
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