「学び直し」の第一歩は、環境を変えること
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「増田紀彦の視点 どうする?日本経済」
第111回
「学び直し」の第一歩は、環境を変えること
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【中学校は、小学校とまるで違う世界】
春近し。卒業式がやってくる。
ほどなく桜吹雪が舞い、子どもたちは進学する。
以下しばらく、私の悪童時代の思い出話が続く。
お急ぎの方は読み飛ばして、
【新たな環境に身を置けば、人は自ずと学ぶ】のあたりから、
目を通して頂きたい。
さて、私にとって印象深い進学と言えば、やはり中学校への進学だ。
とにかく日常の風景が、小学校とまるで違う。
学生服や学帽の着用を義務づけられ、
わずか1、2歳違うだけの先輩を神様のように扱い、
英語の授業では、トマトをトメイトと発音しろと強要される(笑)。
何て不自由な世界。
だが、なのか、だからなのか、
自由は、自らの気概と努力で掴み取るものだと思い知った。
【教室にいながら釣りを楽しむも、あえなく発覚】
中2の時だった。
やる気のない教師の話に飽き飽きしていた私は、
さっそく、自らの気概と努力で自由を掴み取るべく、
授業中に魚釣りを楽しむことを思い付いた。
校舎2階の教室の窓際の席に陣取っていた私は、
机の脚に釣り糸を結び付け、ウキと錘と針とエサも付けて、
教室の窓から、1階の中庭にある鑑賞用の池にそれを投じた。
案の定、教師は気付かない。私は笑いを噛み殺すのに必死だった。
ほどなく、階下から大声が聞こえてきた。
「おーい、引いてるぞ。早くしねーと(鯉が針を)飲んじまうぞー」。
しまった……。
あの声は、学年主任の清水(先生)だ。
目前の教師を欺くことばかりに夢中になり、
地上からの視線に思いが至らなかった。
リスクは、時間と空間を広げて検討すべきだと学んだ。
とはいえ、学びの代償は高い。
清水につかまえられた私は中庭に連行され、
そのまま、池の隣に設置してある鶏小屋に監禁された。
牢獄生活は2時間以上続いた。
その小屋の前を通る教師や生徒の、哀れみを湛えた笑いが突き刺さる。
くそっ、釈放されたら清水に必ず報復してやる。
アイデアは、すでに獄中で練り終えていた。ふふふ。
【鬼教師への渾身の報復テロも不発に終わる】
善は急げ。もしくは、悪は急げ。
私はその日の放課後、中庭の掃除をするふりをしながら、
駐車場に停めてある清水のホンダN360に近づき、
こっそりと、マフラーに雑巾を突っ込んでやった。
これで、清水のオンボログルマのエンジンは掛からないはず。
ははははは。泣け、清水! わめけ、清水!
翌日の清水の授業。
「昨日、私のクルマのマフラーに雑巾を押し込んだヤツがいる!」。
きたきたきた。ざまーみろ。
「犯人をほめてやらないといけないな」。
えっ? なに? なんで?
「そうやればエンジンが掛からないことを、以前、私は教えたよね。
犯人はそれを実際にやってみたわけだ。実験は大事だ」。
げっーーーーー、しまった。
そうだった。よく考えたら、テロ戦術の情報源は清水だった。
しかも、エンジンは難なく掛かったそうだ。
私が詰めた雑巾程度なら、排気で一気に押し出せるらしい。惨敗……。
ところが、今度は何のお咎めもなし。
なぜ? 「実験」を本気で評価しているのか? そうなのか?
結局、清水の頭の中は今もわからない。
わからないというより、何通りもの答えが浮かんでしまう。
中学の3年間を通じて一番難しかった出題は、恐らくこの一件だ。
「わからなければ考える」。
その当たり前の姿勢の大切さを、身をもって学ばせて頂いた。
清水先生への感謝は、今なお大きい。
【新たな環境に身を置けば、人は自ずと学ぶ】
いかんせん、50年も昔のエピソードである。
現在の中学校の現場とは、何もかも違うかもしれないが、
あの3年間は本当によく学んだ。たくさん学ばせてもらった。
規則が厳しいからこそ、抜け穴や逃げ道を探る方法を学んだ。
道徳が一面的だからこそ、思想信条の自由の尊さを学んだ。
序列にうるさいから、礼儀と慇懃無礼の両方を学んだ。
クラスには秀才も変人もいたから、多様性の豊かさを学んだ。
競争意識と連帯意識のはざまで、人の心が揺れ動くことも学んだ。
そのうえで、方程式の解き方やサ行変格活用のパターン、
ブラウン運動やドップラー効果の面白さも学んだ。
学ぶことの大切さは言うまでもないが、
そもそも人は、未知の環境に身を置けば、
その環境でより良く生きるために、
自ら率先して学ぶ生き物なのではないだろうか。
長々、中学校時代の出来事を振り返ったのは、
この仮説の妥当性を実感したかったからだ。
【リカレント(循環)教育を、日本の常識に】
さて、リカレント教育が大事だと言われている。
ご存じのとおり、リカレントとは循環のこと。
学校を出て就労した後、いったん職場を退き、
もう一度、学びの場に身を置き、再び職場へと戻る。
これを繰り返すのがリカレント教育だ。
従来、学校を出て就労すれば、
後は働けなくなるまで働き続け、可能なら「余生」を楽しむ。
そんな生涯の過ごし方が一般的だった。
だが、人生100年時代。
しかも、社会の変化は加速の一途。
ゆえに、人生において抜本的なインプットとアウトプットを、
何度か繰り返さなければ、現役はとても務まらないということだ。
【政府はリカレント教育の定義を曖昧化している】
ところが、政府広報に目を通すと、
リカレント教育をこんなふうに説明している。
「日本では、仕事を休まず学び直すスタイルもリカレント教育に含まれ、
社会人になってから自分の仕事に関する専門的な知識やスキルを学ぶため、
『社会人の学び直し』とも呼ばれます」。
これは、おかしい。
もちろん、仕事を休まずに学び直すことは十分可能だが、
それでは、新しい環境に身を置くことができない。
企業留学制度のように、勤務先に在籍したまま数年間、
学生として日々を過ごせるのなら良いが、勤務を継続しながらでは、
いきおい、仕事に直結したテーマや、それに近いテーマに目が向く。
仕事に役立つテーマを学ぶことは悪くないが、
そうなると、その人がもとから有していた視点や発想の上に、
新たな知識や方法論を付け加えるだけになってしまう。
つまり、「学び直し」ではなく、「学び足し」だ。
【リカレント=「学び直し」、リスキリング=「学び足し」】
学び直すとは、単にもう一度、勉学に励むという意味ではなく、
従来の知識や知恵を一度捨て、あるいは封印し、
まっさらな気持ちで、学習にいそしむことではないだろうか。
私の昔話になぞらえれば、
「学び直し」は、小学校を6年で終えて、新たに中学校に3年間通うこと。
「学び足し」は、小学校に在籍したまま、7年生、8年生、9年生と進むこと。
「学び直し」を実のあるものにするためには、環境の変化が重要だ。
政府も、それくらいのことはわかっているはず。
にもかかわらず、前記のような説明をするのは、
「日本社会の実情」に忖度するからだろう。
【多種多様な分野での「学び直し人材」の輩出が不可欠】
確かに、キャリアを停止し、それなりの金銭を投じてまで、
学び直したいと思う人はまだ多くないだろうし、
そもそも、したいと思ったところで、
それが許される生活基盤を築いている人がどれだけいるか、という問題もある。
また、企業にしても、そういう意欲的な人材が現場を去ることを、
受け入れがたい気持ちもあるだろう。
したがって勤務しながらの学習は、「リスキリング」が主流になる。
いわば業務上必要になる新たな知識や技術やハウツーを身に付けることだ。
これなら、個人も企業も取り組みやすい。
だが、日本経済百年の計、いや、日本経済十年の計を立てるなら、
個人と企業の両方が抱える「学び直し」の壁を取り除き、
本当の意味でのリカレント教育を推進することは、待ったなしの状況だ。
今後の成長分野として、デジタル関連や環境関連の産業が注目されており、
政府も企業も、その分野で活躍できる人材の育成が必要だと考えている。
もちろん、それはそうなのだが、
では、10年後も、デジタルと環境だけが、有望株なのだろうか?
そんな保証はどこにもない。
何が出てくるか、何が必要に迫られるか、予測困難なのが現代社会だ。
とすれば、多種多様な分野で学び直す人材を多く輩出することこそが、
将来への何よりの保険になるだろう。
繰り返すが、本当の意味での「学び直し」の推進が、
将来の日本社会と日本経済を担保する根本的な手立てだと、私は考える。
<一般社団法人起業支援ネットワークNICe 代表理事 増田紀彦>
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「つながり力で起業・新規事業!」
メールマガジンVol.182
(2023.2.21配信)より抜粋して転載しました。
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