増田通信より「ふ~ん なるほどねえ」227 あの夏の、仮想会話
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<最近の肉声> あの夏の、仮想会話
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8月は私の独立記念月だ。
勤務先をやや円満に退職した私は、翌年早々に予定している会社設立までの期間、
自宅を事務所にして、フリーランサーとして活動することにした。
もう35年も前のこと。
あの頃の東京の夏は、今のような猛暑に襲われることはなかったが、
20代の私のハートはメラメラ燃えていた。財布の中は寒かった。
とにかく自由を満喫した。
仕事があれば仕事に没頭する。
時間が空けば、画材屋や本屋に出かける。
ギャラが振り込まれるまでの生活費に困ることもあったが、
そういう時はパチンコで日銭を稼いだりもした。
楽しかった。
ただひとつ、予想外の問題が生じた。
まる1日、あるいはまる2日、時にはそれ以上の日数、
一度も口を動かすことがない日々が続いてしまうことだ。
この手の状況を経験したことがある人ならわかると思うが、
声を出さない時間があまりに長いと、
「自分はちゃんと喋れるのだろうか」と、突如不安に襲われたりする。
その懸念を払拭すべく、「あーあー」と、マイクテストふうに声を出してみる。
「よかった。出ている」。
とはいえ、発声できることと会話ができることは、別問題。
まともにモノが言えるかどうかが心配なのだ。
「自分は喋れる」と思うのは、
というか、そもそもそんなことすら意識しないで喋れるのは、
さほど時間を空けずに、他者と言葉を交わした「実績」があるからだろう。
だから何日も実績無しが続くと、自信が揺らいでしまう。
当時の私は小さなマンションの一室で一人暮らし。
気が向いた時に声を掛ける相手もいないし、
辞めたばかりの勤務先に、用もないのに電話するのも躊躇われる。
そこで考えた。仮想会話はどうか?
初めのうちは、親しい友人とか、取引先の担当者とか、
そんな人たちを頭に描いて日常会話を実演してみた。
これがジワジワと面白くなっていく。
「この人なら、あんなことを言うだろう」、
「あの人なら、こんなトーンで話すだろう」。
続けるうち、相手の特徴や心中を掴もうとする意識が高くなるし、
相手にぶつける質問の巧拙もハッキリ自覚できるので、
自分に何が不足しているのかを考えるきっかけにもなる。
もはや「声が出るかどうか」の確認など、どうでもいい。
なにしろ仮想だから、いかなる相手ともやりとり自由。
今日は長島茂雄、明日は長島一茂、明後日は……という具合である。
まあ、人が見たら気味の悪い光景だろうが、
見て気味悪がる人すらいない環境だから、やっているのである。
そんな楽しくて勉強になってキモい経験ができたのも、わずか数カ月。
秋が来て、会社の設立準備が本格化し始めてから、
今日に至るこの数十年間は、のべつまくなくリアルに喋りっぱなしである。
と思ったが、そう言えば最近は、めっきりお喋りが減っている。
言うまでもなく、コロナ禍のせいだ。
やはり、人は誰かとお喋りできる環境をキープすることが大切だ。
でも、数十年ぶりに、仮想会話を再開してみたい気がしないでもない。
現在の自分の心の内を知る手立てになりそうな気もするので。
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増田紀彦NICe代表理事が、毎月7日と14日(7と14で714(ナイス)!)に、
NICe正会員・協力会員・賛助会員、寄付者と公式サポーターの皆さんへ、
感謝と連帯を込めてお送りしている【NICe会員限定レター「ふ〜んなるほどねえ」スモールマガジン!増田通信】。
第227号(2021/0816発行)より一部抜粋して掲載しました。
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