一般社団法人起業支援ネットワークNICe

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活動報告 NICe震災復興支援委員会@岩手県普代村


先人たちの教訓と情熱を受け継ぐ

岩手県普代村を視察



 


●実施日/2012年7月5日
●主な活動地域/岩手県普代村

●視察内容
NICe震災復興支援委員会委員長・増田紀彦代表理事、委員メンバーの永山仁氏、小林京子氏、岡部恵と竹内香織氏の5名は岩手県普代村を訪問した。この普代村は、東日本大震災の大津波に襲われながら死者0だったと、増田代表理事が何度か基調講演の中で紹介している三陸海岸の漁村だ。

我々は普代村役場の森田安彦氏、教育委員会事務局の菅野伸二氏の両氏に案内していただき、高さ15.5m、幅205mの普代水門へ。白砂が広がるかつての美しい浜辺は跡形もなく、1984年に完成したコンクリート製の水門は20mを越えた津波の威力で損傷しており、この日も修復作業が行われていた。水門最上部にある作業所は高さ26mだが、そのドアは水圧で破壊されている。この水門からわずか100m上流に、普代小学校、その隣には普代中学校がある。森田氏はちょうど大地震発生時、その小学校にいたという。海岸から300mのこの水門を職員が手動で締めたことで、集落に海水が流れ込むことはなかったが、津波はこの水門をも超え、小学校の体育館近くまで押し寄せたそうだ。


▲下流側から見た普代水門


次に案内いただいたのは、太田名部防潮堤(総延長155m、高さ15.5m、1970年完成)。この防潮堤の上から漁港方面を眺めると、防波堤が幾重にも並び、大型のテトラポッドがそのまわりを覆っているのが見てわかる。森田氏によれば、20mを越す巨大津波はこの何層もの防波堤と消波ブロックによりエネルギーを拡散し、波の高さを7mほどまで下げることになり、防潮堤を超えることはなかったという。震災後に国内外から多くのメディアが取材に訪れ、この防潮堤と水門が村を守ったとクローズアップしたが、森田氏は、それだけでなく強固な漁港があったおかげだと語ってくれた。


▲太田名部防潮堤。津波はこの防潮堤を超えずに集落を守ったが、防潮堤の手前の被害は甚大だった。漁協加工場も市場も店舗も津波に飲み込まれ、漁船600隻のうち550隻が流出、破損した

 
▲写真は防潮堤の上からの眺め。正面が堀内漁港、右奥が太田名部漁港。
震災から16カ月、目の前の堀内漁港のまわりには漁師組合の番屋や仮店舗が建ち始めているが、まだまだ至る所に津波の傷跡が残っている


これら普代水門と太田名部防潮堤、そして強固な漁港の建設に尽力したのが、昭和22年から10期にわたり普代村の村長を務めた和村(わむら)幸得氏だ。かつて普代村は、明治29年の大津波で302人、昭和8年の大津波でも137人が犠牲になっていた。だからどうしても防潮堤が必要なのだと和村村長は訴え続けた。当時の費用で防潮堤は5837万円、水門は35億6000万円の総工費。当然のことながら猛反対をくらうが、村長は折れず、過去15mの記録があるのだと、頑として譲らなかった。そして2011年3月11日、この水門と防潮堤、そして強固な漁港が村を守った。

続いて一行は、村の商店街へ移動し、上神田精肉店を訪問。二代目・上神田敬二氏は、東京の料亭や伊豆のホテルに10年間奉公し、煮方を務めたほどの料理人。その腕前で、普代村名産のコンブを生かした様々なオリジナル商品を開発している。そのひとつが試行錯誤4年間を経て完成させた『こんぶ入り特製生ダレ』。その後、農林商工課の高井俊一氏も交えて、復興の取り組み、支援のあり方について意見交換を行った。翌6日、北リアス線の復旧を待つ普代駅、防潮堤と上神田精肉店を再訪した。


 
▲普代水門に登らせていただき、森田氏から大震災・大津波の様子をうかがった

 
▲手前が森田安彦氏、奥が菅野伸二氏。おふたりに深謝。太田名部漁港と堀内漁港を見渡せる太田名部防潮堤の上にて

 
▲防潮堤の近くに住むご婦人からも震災当時の様子、復興への思いをうかがった

 
▲防潮堤の上にある番屋には、普代村の歴史と先人の教えを記録した『太田名部物語』が、いつでも村民が閲覧できるよう置かれていた

 
▲上神田精肉店の二代目・上神田敬二氏。店内の鏡の上には、三陸鉄道北リアス線のキャンペーンポスターが貼ってあり、そこに映っている「普代駅」代表がこの上神田氏。
翌朝、再訪した時には消防団員に!


▼三陸鉄道北リアス線の復旧が待たれる普代駅。構内にはアンテナショップがあり、名産のこんぶを生かした様々な商品や野菜など、100点近い品数を揃えている
   

▼防潮堤の上から見えた堀内漁港。大津波後、建て直された卸売市場へ。
中に入るとすぐ目の前に、港を守った防波堤が見えた
 


●感想・課題・今後の予定
「陸中海岸沿いは今なお手つかずの箇所が多く、津波の傷跡が痛々しいばかりでした。普代村もまた、防潮堤の内側への浸水はなかったものの被害は甚大で、復旧作業は長期戦だと実感しました。普代村は豊かな海に面した漁業の村ですが、震災前年はエチゼンクラゲの大量発生で、その年末は低気圧のおおしけで漁は大打撃。そして大震災でした。

今回の我々の訪問に全面協力してくださった村役場の森田さんは、複数の業務を掛け持ちしながら『広報ふだい』をひとりで担当されています。震災直後のNo.586(2011.3月28日)号も休刊することなく、その後も定期発行し、人口約3000人の普代村のみなさんがどれほど復旧に向け尽力されているか、その記録や情報だけでなく、共に歩もうと呼びかける“あすへの光”を報じ続けています(役場のWebサイトからバックナンバーをダウンロードできます→→こちら)。

初めての電話で森田さんは、『人と出会うことで人は学ぶ』と我々の訪問を歓迎してくれました。各所をご案内くださり、報道では知ることができない現状も語ってくださいました。その中でも特に、太田名部防潮堤と漁港建設の関係は印象的でした。周囲の反対を押し切って防潮堤建設が着工した当時、普通ならばそれで安心してしまうところでしょうが、和村村長はさらに、防波堤を強固にすることを主張したと。それが、幾重にも並ぶ防波堤とテトラポッドにより強固な漁港となり、自然の地形も相まって、20数mもの津波を7mにまで減衰させることにつながりました。防潮堤や水門があれば安心、なのではなく、それがあるほどに危険な場所なのだということ。そして、備えあれば憂いなし、ではなく、防潮堤に防波堤を加えたように、常にベストかどうか考え続けること。日々の生活でも消火器があれば安心なのではなく、消火器を設置しなくてはならないほどに危険な場所、そんな危機意識はあったかと自問してしまいました。和村村長をはじめ村民のこの高い危機意識は、生活面だけに限らず、事業継続にも共通する教訓だと思いました。

また、上神田さんの『こんぶ入り特製生ダレ』をはじめ、もったいないの精神から3人の漁師さんたちが40年前に開発した『すきこんぶ』、『普代村こんぶうどん』など、特産コンブを生かしたさまざまな商品開発への取り組みにも感銘を受けました。と同時に、それらの販路拡大、さらに漁業の本格再建や鉄道の復旧など、まだまだ課題は山積だともうかがっています。NICeが掲げてきた震災復興第3段階(経済復興)支援は、まさにこれからが始まりなのだとあらためて感じます」

文・撮影/岡部 恵

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